1960年:第一海軍火薬庫跡地を自衛隊が使用決定
【 第一海軍火薬廠跡地を自衛隊が使用決定 】
昭 和20年11月1日、新内閣により閣議決定された「終戦に伴う海軍所管国有財産処理に関する件」の施行内容に、船岡海軍共済病院(のちの仙台鉄道病院)を 除く第一海軍火薬廠が閉庁となり、火薬廠で働いていた1万余りの人々は職を失い途方に暮れた。昭和24年からはそれまで敗戦処理に当たっていたアメリカ進 駐軍の縮小、撤退が開始された事で、町民の購買力が減退した。経済低迷の解消が町民にとっても町にとっても重要懸案の一つとなっていた。
そこで町の活性化を図ろうと、昭和33年2月13日、関係市町村による第一海軍火薬廠跡活用促進期成同盟会が発足。同年3月、アメリカ軍が火薬廠接収を解 除したのを契機に、翌年には仙台移駐した陸上自衛隊東北支援郡の再誘致運動が展開された。このような官民一体となった運動が実を結び、昭和35年1月、自 衛隊による火薬廠跡地使用が決定。同年5月8日、自衛隊(愛知県豊川市駐留の陸上自衛隊第103建設大隊)が移駐することになった。
その後、火薬廠跡地の一部払い下げが認可された事で、自衛隊のみなならず、さまざまな跡地活用が進められた。そして昭和36年11月には県工場誘致条例第 1号の(株)東北共同化学工業が進出。翌37年には、三東化学工業(株)、大栄ステンレス研磨工業(株)が進出を決定するなど、積極的に企業誘致を推進し た。さらに、仙台大学や船岡養護学校、航空宇宙研究所角田支所などが次々と設置され、活気あふれる町へと、柴田は変わっていった。
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